エスペリアのレース活動

サポートチーム&マシン

TEAM MACH

Machine マッハGoGoGo車検Ferrari458
Driver 玉中 哲二 / 植田 正幸
URL http://www.mach5.jp/

Team UP GARAGE with DRoo-P

Machine UP GARAGE FALKEN 86 / UP GARAGE FALKEN AE86
Driver 日比野 哲也 / 松川 和也
URL http://d1ms.upgarage.com/

エスペリア モータースポーツの歩み

1998年より本格的にモータースポーツへ参戦開始。その舞台になったのは、スーパー耐久レースで、マシンはトヨタ セリカ。
ビデオオプションとのコラボ企画で、チーム監督には、現在D1グランプリで大活躍の野村謙氏、ドライバーには、現在D1グランプリで舌好調の
スーパーMC鈴木学氏と雨宮栄城氏を迎え華々しくデビューしました。

スーパー耐久セリカエスペリア・V-OPT・セリカ
チーム監督 野村謙氏
ドライバー 鈴木学氏 / 雨宮栄城氏
最高位 ’98 スズカ スーパーN1-500K総合5位クラス3位

ピットウォークでは、毎回大勢のファンの方々に囲まれスーパー耐久界を盛り上げることに貢献しました。最高位はクラス3位で、表彰台の真ん中に立つことは出来ませんでした。それでもエスペリアのイメージカラーであるマリンブルーにペイントされたセリカがサーキットを疾走する姿はセリカファンにはたまらないものでした。セリカオーナーの中には、このフロントバンバーを取り寄せ、外観を「エスペリア・V-OPT・セリカ」仕様にした方もいらっしゃいました。

スーパー耐久_アルテッツァ翌年の1999年からは、マシンをセリカからアルテッツァに変えさらに戦闘力をアップ。チーム名は「エスペリア・ジアラ・アルテッツァ」へ変更になりました。ドライバーは、雨宮栄城氏と山路慎一氏のコンビへ。(山路氏は現在D1グランプリの審査員)
堅実なレースを展開しながら、この年の5戦目になる「もてぎスーパー耐久レース」にて待望のクラス優勝を果たすことができました。(総合7位 クラス優勝)
エスペリアのモータースポーツへのチャレンジで当初からの目標であったクラス優勝。これを2年目のチャレンジにて達成することが出来ました。

ル・マン24時間耐久レースへのチャレンジ

寺田陽次郎氏日本国内レースでは、スーパー耐久レースに参戦し、それと平行しながらエスペリアは、ル・マンへチャレンジを始めます。株式会社オートエクゼ代表でレーシングドラバーのミスター ル・マンこと寺田陽次郎氏と手を組み1999年6月ル・マン24時間にデビューしました。寺田陽次郎氏は、1974年から3回のクラス優勝を含め現在まで29回ル・マンを走り続ける現役のレーシングドライバーです。この出場回数は、日本人としての最多参加記録として現在も更新中です。1999年に出場したマシンは、オートエクゼLMP99。真っ赤なボディにヒロヤマガタ氏がアフリカの動物達を描いたデザインが素晴らしく、まさに走るアートでした。

LMP99今大会は、BMW、メルセデス、アウディ、トヨタ、ニッサンなどのワークスチームが数多く出場している中で、オリジナルのマシンとして参加するプライベートチームとしても注目されました。
決勝では、燃料漏れや、クラッチトラブルが発生し長時間のピットストップを余儀なくされながらも堅実なレースを展開。しかしながらスタートから10時間余り経過した時点で走行中にエンジンがブロー。ピットには、戻ってきたものの、残念ながら修復不能でリタイアとなってしまいました。24時間を戦い抜いた者だけに栄冠が輝くル・マン。エスペリアにとってのル・マンへのチャレンジは手厳しい初戦でありました。

2000年ルマン-1 翌年の2000年第68回ル・マン24時間レースへ向けて寺田陽次郎氏は、フランスに本拠地を持つヴェルテ・レーシングとドライバー契約を行います。そしてマシンをWRプジョーにチェンジし参戦することが決定しました。エスペリアも引き続き寺田氏をサポートし、2年目のル・マンへのチャレンジです。

決勝は午後4:00にスタートです。絶好のレース日和に恵まれ24時間の戦いが始まりました。序盤から順調に周回を重ねるも、コースの状態はクラッシュした車の破片などがあり、決して良い状況とは程遠いコンディション。予断は許されない状態が何時間も続きます。途中、燃料ポンプやスターターにトラブルが発生。しかしメカニックの懸命作業で難なくコースへ復帰!テールランプがコーナーに消えていきます。

ル・マンの朝日

2000年ルマン-2スタートから13時間余りが過ぎました。いよいよル・マンの夜が明けます。この「ル・マンの朝日」を見ずに去っていったライバル達が毎年数多くいます。寺田氏自身もこの朝日を見るまでには何年もかかったそうです。
レースは、まだ約半分を消化しただけで、まだ10数時間も残っています!あらためてル・マンの過酷さを再認識します。長く厳しいレースです。

コースコンディションは相変わらずで、かなりの車両がエンジンやタイヤにトラブルを抱え、クラッシュに泣いています。私達がサポートするWRプジョーは、寺田氏を始めとするチーム全員のガッツとレースの女神に見守られながらゴールの午後4:00を迎えることが出来ました。総合26位、クラス2位を獲得です。
エスペリアのル・マンへのチャレンジは2003年まで行います。その5年間で、最高位クラス2位を2回獲得しル・マン24時間レースの記録に名を残したのです。

全日本GT選手権へステップアップ

AE86 トレノ-12001年いよいよ国内最高峰の全日本GT選手権(JGTC RACE)へチャレンジ開始です。マシンは、現在でも大人気のAE86、トヨタ トレノです。
マシン名はプロジェクトミュー・エスペリア・トレノ。カーNoは86。シャレが効いてますね。長島正興氏と松田晃司氏がドライブします。

この車はチームKRAFTが製作し、1999年第3戦にJGTCレース史上初めてAE86を出走させたことで話題になりました。チームKRAFTは2000年と2001年も、この86でエントリーし、エスペリアは2001年第2戦からサポートを開始することになりました。今年で3年目になる86に多くのファンが見守るシーズンの始まりでした。

この86の外観は、片側5cmのブリスターフェンダーでワイドボディ化され、リアウィングを装備したスタイルで、一見ノーマルベースっぽいのですが、中身は全くの別物。パイプフレームで組まれており、例えるならフォーミュラーカーに86のボディを被せたようなマシンです。エンジンは4A-GEエンジンではなく、JGTCスープラ用の3SGターボエンジンをディチューンした物(パワーは330ps!)を搭載したモンスター86だったのです。

運命の第3戦

AE86 トレノ-22001年5月全日本GT選手権 第3戦 スポーツランドSUGOを最後に引退することが決定したプロジェクトミュー・エスペリアトレノ。当日は86の最後の雄姿を目に焼き付けようと大勢のファンが集まりました。レースは午後2時過ぎに決勝がスタートし、順調に周回を重ねて行きます。しかし、後半にさしかかった頃に86に不運が襲います、走行中に漏れたオイルが発火したのです。コースサイドに止まりドライバーの松田氏の懸命な消化も及ばず炎上してしまいました。まったく悪夢としか言い様がありません。これが86の最後でした。遊び心でスタートした86プロジェクト。いつしか夢と希望抱きスタッフ全員が真剣に取り組み、夢が叶ったGT選手権への出走。しかしもう走る姿を見ることは出来ません。でも、皆様の心に焼きつき、時代が変わっても語り継がれるに値する名車だったことは間違いないでしょう。

新車投入

MR-S.186トレノに別れを告げ、新車のTOYOTA MR-Sを投入。プロジェクトミュー・エスペリアMR-Sとして生まれ変わりました。最新型の車輌になり、戦闘力もアップしいよいよ表彰台を狙える体制が整いました。しかしライバルのチームも同型のMR-Sをベースにしており、GT300クラスは、更なる激戦化の中を戦わなければなりません。

スターティンググリッド7から頂点へ

MR-S.2新車投入後の第2戦目にあたる2001年SUZUKA GT300km。
GT300クラス決勝スターティンググリッド7のポジションでプロジェクトミュー・エスペリアMR-Sは、ローリングスタートの為のフォーメーションラップに入りました。

スターティングドライバーは、松田晃司選手です。松田選手は安定感抜群の堅実なレース運びで、上位陣をぴったりとマーク。虎視眈々とトップを狙います。

GT300優勝その後、序盤を過ぎたあたりから、次々と上位陣にトラブルが襲い掛かります。接触、クラッシュ、コースアウトなどでほとんどのチームがコース上から去っていきました。
まさに生き残りを賭けたサバイバルレースです。後半のステアリングを握る長島正興選手は、荒れた路面にもかかわらず確実に周回を重ねなんと、ラスト2周でトップのポジションへ!そしてそのままゴールのチェッカーを受けGT300クラス初優勝を飾りました。エスペリアとしてはJGTC GT300クラスへのチャレンジ1年目にての快挙でした。